初五郎と家族の日露戦争「坂の上の雲」と「坂の下の村」



初五郎と家族の日露戦争「坂の上の雲」と「坂の下の村」

初五郎に宛てた、妻ふみの手紙(提供=柏中央高校 鳥塚義和先生)


 小説「坂の上の雲」は日露戦争を題材にした司馬遼太郎の傑作だ。だがその中に、明治政府により徴兵された一般兵士の悲しみをどれほど読み解くことができるだろうか。

 今回本紙が取材した鳥塚義和氏(県立柏中央高校教諭)の論文「初五郎と家族の日露戦争・日記と手紙を読む」には農民兵士として出征した鈴木初五郎の「日露戦争日記」や、家族や親族との手紙の内容が納めてあり、戦争の悲惨さが伝わって来る。
主人公の初五郎は、東葛飾郡明村上本郷(現松戸市)の農民。

 明治37年の25歳の時に出征し、船でまず朝鮮に渡り、鴨緑江渡河作戦で先陣を切って戦闘に入った。その状況を
「九里島ニ突撃ス。…尖兵トナリ…渡河ス。敵味方共大ニ射撃ス」と記録している。この戦いで同郷の先輩、鈴木甚之助は肩に貫通銃創を受け廃兵となった。また彼らの部隊の陣中日誌には、強行軍が続いた状況を「此日炎暑激シク…兵卒ノ負担量…八貫六百匁ヲ持ッテ非常ニ疲労シ、落伍スルモノ五十二名ニ達ス」と記録している。何と32㌔の荷を背負わされ、31㌔もの道を14時間もかけて行軍したのだ。戦闘では死傷者が増えて、「全面ノ敵ヲ撃退ス。…当中隊ハ死傷六名」とも記している。

 初五郎には、22歳の妻ふみと生まれたばかりの娘しずがいた。ふみは流山の実家に帰省した折に「おシズノ成長シタルコト実ニオトロキマス。…早クカイテヲクンナサイ。…弾丸ニアタラナイ様ニネガイマス」と書き送っている。

 またふみの父紋五郎は、弾丸除けを祈願する三河国僧坊のお札一千枚を道に立てたり、成田山の守り札を送ったりしている。 さらに、東京の親戚筋に当たる鈴木滝子からは、手紙と共にサムハラ(災難除けの呪文札)が送られている。
こうした数々の温かい書簡は戦地の初五郎にとってどれほど励ましとなったことだろう。

 初五郎は農民として、故郷の田畑の作柄も気がかりだったようだ。彼の父、政五郎は「農事に対するお尋ね。水田の…苗の生長も能く、…亦麦作は、小麦に至るまで、…上出来に御座候」と書き送った。戦地の我が子を安心させたい親の思いが伝わってくる。一方で、明治政府による増税と物資の徴発を嘆き「征露開戦以来、徴発を農家に申付けられ、…眠る目も眠らないでも、国家の為是非もなえ…昼夜の別なく、縄(と)叺(かます)売麦(の)三品にして…」と、息子を徴兵で取られた上に賦役を課せられて嘆息し「是非もなえ」と、縄を「なう」ことに諦念の意味を含ませている。

また、親戚筋の染谷松治郎は日露開戦に反対であった。戦地における初五郎乗船の座礁事故を聞かされた彼は「…身命をなげうって、戦争、嘸々難渋致し居候と推察仕候得共、是非に及ず候間、(政府の)征露失策を憎み…只々、貴君が存命にて帰郷あらん事を祈れり」と、検閲を恐れずに書き送っている。
さらに松治郎は、戦死した妹の夫、日暮太之助の功績扶助料にふれて
「銭は稼げばデキますカラネー。寿(命)は銭で買ひません。小生も義弟を戦死サレマシタガ、…『アキラメラレヌト』『アキラメマシタ』…ハハ(嘲笑)」と皮肉をこめて初五郎に吐露したのだった。
◇   ◇
 日清戦争に続き日露戦争でも大勝利した日本帝国。その戦果は今日、映画や小説などで勇ましく取り扱われることが多い。しかしその陰では初五郎やその家族のようにただ出征家族の無事と帰還を願うのみの人々が多く存在したのだ。国家という「怪物」のために、今日まで幾多の尊い命が犠牲とされてきた事か。まさに「一将功なりて万骨枯る」である。

 鳥塚氏の研究結果によればかつての東葛地方五つの市で戦死した兵士の数は、当時の総人口約十万人に対し、170人となっている。この数は決して少なくない。ましてやその戦死者達に関係した十数倍人の涙が流されたことを思うと心が痛む。
鳥塚氏は論文の結論で「『坂の上の雲』ではなく『坂の下の村』を掘り起し、それを歴史教育に生かすことも重要である」と結んでいる。


                                                  

2018年11月28日 初五郎と家族の日露戦争「坂の上の雲」と「坂の下の村」 はコメントを受け付けていません。 | トラックバックURL |

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