東葛歴史逍遥 流山で新撰組に会いませんか



東葛歴史逍遥 流山で新撰組に会いませんか

web
 本年は、明治維新よりちょうど150年目を迎える節目となっている。その維新の直前に、新撰組の近藤勇や土方歳三らが、流山に布陣したと聞くと驚かれるだろうか。

新撰組といえば、たいがいはまず京都を連想するかもしれない。ところが、その都から数百㌔も離れた下総国流山に、時代の花形と言って差し支えないスター軍団の新撰組が、陣営を張ったのだから驚かされる。そこに行きつくまでの流れとは…。

鳥羽・伏見の戦いで薩長軍に敗北した新撰組。そしてその後の甲州勝沼の戦いでも板垣退助が率いる新政府軍に敗れ、一時は江戸へ退いたものの、やがて奥州の会津藩を目指すことになり流山にたどり着く。そこで隊士たちの再結集を図り陣を敷いたものとなっている。   それを知った西軍(新政府軍)によって、陣はたちまちに包囲されて逃げ場を失うと、当初は切腹を覚悟した近藤勇だったが、土方による策略として、近藤は幕府公認の治安隊長・大久保大和であると、偽名で投降。一旦はそこを切り抜けたのち、会津で再会を果たそうとしたのであった。

ところが、近藤は連れて行かれた板橋での取り調べで、本人であることが露見し、打ち首の刑を受ける結果となる。
その後の新撰組の末路は実に物悲しい。土方らは会津でも勇猛に戦ったが破れ、さらに落ち延びた隊士らは、やがて蝦夷地の御陵閣へとたどり着き、幕臣の榎本武明らと共に戦い、土方は戦死。新撰組は瓦解(がかい②)をたどる結末となったのだ。

歴史を語るのに「たら」や「れば」は禁物だが、もしその時、流山で近藤や土方らの隊士ら200余名が、官軍を相手に必死で戦っていたなら、その陣屋跡は、どのような歴史的意味をなしたかを考えると興味は尽きない。
陣屋の近くには「流山市立博物館」などもあり、共にその一帯の歴史を偲べる機会ともなっている。ぜひ、訪れてみよう。

陣屋跡へのアクセス:流山線流山駅徒歩約3分。流山市流山2‐108

※①逍遥「あちこちをぶらぶら歩くこと」
※②瓦解「物事の一部の崩れから全体の組織がこわれてしまうこと」

※紙面において瓦解のふりがなを「かがい」と表記してしまいましたが正しくは「がかい」です。
修正してお詫びいたします。


                                                  

2018年05月30日 東葛歴史逍遥 流山で新撰組に会いませんか はコメントを受け付けていません。 | トラックバックURL |

カテゴリ: その他の地域 東葛ニュース 流山

トラックバック&コメント

まだトラックバック、コメントがありません。