鈴木貫太郎記念館「日本を、捨て身で平和に導いた人」



鈴木貫太郎記念館「日本を、捨て身で平和に導いた人」

web1
 今年の8月で、日本は太平洋戦争の終結から73年を迎え、史上稀にみる、長期の平和国家を確立したことになる。では、その終戦を導いた立役者とは誰だろう。実はその人物が、この東葛地域の旧関宿町(現、野田市)の出身だと聞いたなら、驚かれるだろうか。
 鈴木貫太郎は、終戦の4か月前に、77歳という高齢で総理大臣に就任した。欧米などの敵国からポツダム宣言を受諾するにあたり、陸軍の反対を押し切って、昭和天皇が切望された終戦の御意向を成就させるため、自らが矢面に立つ満身創痍でそれを実現させた歴史上、傑出の人物である。

 実はこの鈴木貫太郎、元は、海軍の首脳を務めるほどの軍人であった。日清戦争では小さな魚雷艇長の海軍大尉として、威海衛の海上に設置された防材を破壊するなど勝利に貢献し、また日露戦争では、自らの駆逐艦隊で敵の旗艦スワロウに魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げて、日本海海戦の大勝利に貢献した。砲弾が雨矢のごとく飛び交う戦場でも、悠然と構えて作戦を実行したことで、部下からは鬼の貫太郎、鬼貫などと呼ばれたという。後に、連合艦隊司令長官、そして海軍軍令部長に就任したのには、そうした功績が認められたからであろう。

 その名誉ある軍人の鈴木が、後に昭和天皇や貞明皇后の希望で皇室の文官・侍従長に就任したのは、軍令部長より格下になるという理由で断ったと、誤解されることを嫌ったためだという。昭和天皇の信任が厚かった一方で、国家主義者・青年将校たちからは「君側の奸(くんそくのかん)」ともみなされて、命を狙われることになった。

 その結果が、二・二六事件である。早朝、安藤大尉の率いる反乱軍部隊に官邸を襲撃され、頭部や胸などに数発の銃弾を撃ち込まれて、一時的に意識を失ったものの、それでも奇跡的に一命を取り留めた。その場での死を恐れなかった潔さと気丈さについて、後に首謀者、安藤大尉は鈴木のことを、「噂とは全く違った西郷隆盛のような、懐の深い大人物だ」と評している。
終戦の4か月前、枢密院議長に就任していた鈴木が、重臣会議で総理の後継首班に推薦されたのは、昭和天皇の信任が厚かったからであろう。それでも、「軍人が政治に出るのは国を滅ぼす元なり」と考え、一旦は固辞したものの、やがて拝命を受けたのには、天皇から「頼む」とまで言われたからとなっている。

 しかし戦況は深刻となる。7月にポツダム宣言が発せられ、8月には広島と長崎に原爆を投下された瀕死の国情の中で繰り返された最高戦争指導会議。そこで激論されたのが、終戦を選ぶか、あくまで戦うかの論争。最終的に昭和天皇と鈴木が提唱する終戦のポツダム宣言受諾を、徹底的な抗戦派であった陸軍大臣・阿南惟幾が、それを受け入れざるを得ない状況となったのは、当の鈴木貫太郎が、元はと言えば海軍出身の軍人だったからと言われている。もし彼が文官の出身だったなら、そうはうまく軍部を抑えられなかったからだ。

 もし徹底抗戦となれば、竹やりとバケツしかなかった日本の、その国民の数百万人、数千万人が、犠牲となっていたであろうか。そう考えると、この鈴木貫太郎こそは、まさに天命により、戦後の平和日本を託された稀代の歴史的人物と言わねばならない。終戦の8月、ぜひ記念館を訪れて、故人の遺徳を偲んでみよう。

■ 鈴木貫太郎記念館 

野田市関宿町1273
開館時間:9時~17時30分
休館日:月曜日(但し祝日は開館)年末年始
入館料:無料
アクセス:東武鉄道野田線・川間駅から朝日バス
「関宿城博物館」・「境車庫」行きで「関宿台町」
下車、徒歩1分


                                                  

2018年07月25日 コメントは受け付けていません。 | トラックバックURL |

カテゴリ: その他の地域 我孫子 東葛ニュース 松戸 流山 野田

トラックバック&コメント

まだトラックバック、コメントがありません。