あゝ手賀沼 教員18人水難殉職事故



あゝ手賀沼 教員18人水難殉職事故

水難慰霊観音と手賀沼

水難慰霊観音と手賀沼


 今年の夏も一万数千発の花火大会で賑わった手賀沼。
集まった何万とも数えきれない人々の波打つ歓声。そして手賀沼大橋を渡る浴衣姿の若いカップルたち。
70年以上前にこの手賀沼で、悲しく痛ましい水難事故があったことを知っている人は少ないかもしれない。
◇   ◇
 「イシラ(お前)、オッカ(お母さん)死んだぞ」
当時まだ14歳で旧制中学の小林健少年が、学校からの帰り道に近所の悪童から聞かされたその言葉が、単なる悪ふざけだったならどんなに良かっただろう。
しかしそれはまぎれもない真実だった。水難による殉職事故、太平洋戦争も終盤に近い昭和19年11月22日のことだ。
当日の朝、小林少年は、教員をしていた母、富みさん(当時36歳)を自転車の荷台に乗せて柏駅まで送って行った。手賀沼の湖北で開催される教育研修のためだった。

 別れ際に「しっかり勉強しなさいよ」と、母親からもらった何気ない一言が、まさか最期の言葉になろうなどとは思いも寄らなかったという。
 午前中の研修を終えて、沼の反対側の小学校で行われる研修のために昼時に船に乗り込んだ。船と言っても当時は笹船とも呼ばれた竿であやつる粗末なサッパ舟。定員は1艘にせいぜい7、8人が限度。しかし用意されたのは3艘だった。
そこに50人もが乗ろうとしたのだ。当然船頭は反対した。だが研修の責任者から押し切られる格好となり、しぶしぶ対岸へ漕ぎ出したのである。

 現代ならあり得ない無理がまかり通ったのは、敗戦間際の無茶苦茶な時代がそうさせたからだろうか。竹やりで本土決戦とか、若者が特攻機で命を散らすとか、2発もの原子爆弾を受けながら一億玉砕が声高となっていた異常なご時世だったことを考えると、権威者に押し切られ、船を出さざるを得なくなった船頭たちの悔しさが滲んでくる。

 航行の安定をはかるため横並びにロープで結ばれた3艘の船が、突如として沈み始めたのは、間もなく対岸に到達しようとした直前だった。
初冬の突然の強風を受けてそれまでは凪いでいた沼の水面が波立ち、1艘の船が浸水したため、3艘ともがパニックに陥りバランスを失って転覆したのだ。

 男子教員が出征していた為、乗っていたのは殆どが10後半の女子教員たちだった。厚手のもんぺや袷の着物姿で泳げるはずもなく、冷たい沼の深みへと呑み込まれていった。

「腰に握り飯を結び付け担架代わりの戸板を担ぎ、提灯で照らし出された夜の野道を歩きました。着いた所には農家の方々がその周りの田んぼの無数の稲藁ポッチを燃やしていて下さり、辺りは赤々としていて、そこに18人の遺体が並んでいました」と、小林さん。

 翌日、野辺送りで母を運ぼうとしたところ、その日から始まった米軍による本土空襲のために村からの命令で禁じられた。遺体のみがぽつんと一つ家に取り残された悔しさ。翌年には南方に出征していた父も戦死。家に残されたのは妹と祖母のみとなった。わずか14歳の小林少年が一家を支えなければならなかった苦労は、察するに余りある。

当時を偲ぶ小林さん

当時を偲ぶ小林さん


 戦争さえなかったら小林少年の人生は違ったものになっていただろう。少なくともご両親の命が奪われることはなかったのではないか。
「平和が一番ですよ。人の命は尊く、世界平和の大切さを心から訴えたい」と、小林さんは心底から語る。

 小林さんは教員だったご両親の意志を受け継いで学校の先生となり、のちに中学校校長の重責も担われた。また後年には沼南町の議員としても活躍された。

 今では立派な大橋が架かり、その周辺には様々な公共施設や住宅が立ち並ぶ平和な手賀沼。静かで穏やかなその沼畔の風景が、どうかこの先もずっと続いてくれるよう、願ってやまない。


                                                  

2018年09月26日 あゝ手賀沼 教員18人水難殉職事故 はコメントを受け付けていません。 | トラックバックURL |

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