東葛歴史探訪 下総の英傑「平将門」新天皇に挑んだ武将



東葛歴史探訪 下総の英傑「平将門」新天皇に挑んだ武将

柏市岩井にある将門神社
将門の娘が建立したとの伝えがある

平安時代の中期、東国(関東)の農民たちは、京の朝廷政権による重税や徴用で疲弊していた。そうした不公正を正そうとして承久2年(940年)に、朝廷に対し果敢に反旗を翻した一人の武将がいた。現在の下総地域と茨城の一部を支配していた豪族、平将門である。

反乱に先立つ前、将門が、東国の勢力争いで対立していた常陸(茨城)上野(群馬)下野(栃木)を支配していた将門にとっては叔父に当たる3人の武将たちが率いる大軍を、お家芸の騎馬戦法で打ち破ったのは承平5年(935年)のことであった。

叔父の一人、平国香を焼死させたことで直後にその息子、平貞盛と戦になったが、その時も将門は彼の兵数の5倍にも相当する相手軍を得意の騎馬戦法で打ち破った。

その内紛よりも、当時の東国の豪族と民衆にとっての最大の悩みは京の朝廷支配による苛烈で過酷な年貢の徴収と徴用に対するもので、そのため都から派遣された国司との不和、不仲が絶えなかった。

そこで両方の関係を修正しようと苦心を重ねた結果、その地の豪族たちや民衆は次第に将門を頼るようになった。将門の常に貧しい民衆のことを気にかけている人柄の温かさと、戦上手で理不尽な圧政に対しては敢然と挑んでゆく姿勢、人望を集めたのではないだろうか。

そうした折、常陸の国の豪族、藤原玄明が将門の元に援助を求めて逃げ込んできた。聞けば国司の息子が権威を嵩に着て極めて横暴で、自らの身の危険を感じたからだと言う。

将門はついに堪忍袋の尾を切らした。常々から朝廷のやり方と国司に対して反感をつのらせていた彼は、常陸の国司に対し戦いを挑み、勝利したのだった。しかもその時、国司の権限の象徴となっていた年貢米を収蔵している倉の鍵と印章を奪い取ったのだ。鍵と印章の奪取とは、朝廷の権威の象徴を奪った事をも意味し、同時に天皇に反旗を翻す「逆賊」となったことを決定づけるものとなった。

将門の国司に対する反撃は常陸国だけに留まらなかった。続けて上野の国、下野の国、武蔵の国へと、矢継ぎ早に攻撃を押し進め、それぞれの国司たちからも鍵と印章とを奪い取り、彼らを東国から追放したのだった。つまり事実上、将門は関東一円を支配下におさめたのだ。

この時、将門は名実ともに東国の覇者となり、日本の朝廷支配に対抗する独立国家を打ち建てた。そして自らを新天皇とする支配体型を確立させたのだった。承久9年(940年)の頃である。

当然、朝廷側は驚愕し、慌てふためいた。将門を追討するため「彼を討った者は身分を問わず、褒美として貴族に取り立てる」という、それまでの貴族社会にはあり得なかった対応策を打ち出した。

それに応じたのが、かつて父の平国香を将門に討たれ、彼に反感を抱いてきた平定盛と、上野国の豪族、俵藤太秀郷だった。

将門が不運だったのは、二人を大将とする朝廷軍がまさに将門に向おうとしていた時、彼が情報をキャッチしていなかったことである。農民思いの彼は、配下の農民兵が田起こしの時期に当たるため、その事を慮って彼らを家に帰していたのだ。将門が手許に残していた兵の数はわずか400人くらいだったとされている。ところが攻めて来た朝廷軍は、その7倍にも及ぶおよそ3千近くの兵数だった。

それでも将門は、果敢に立ち向かい善戦した。

しかし、平地での正面切っての戦は数の戦いとなり、将門軍はついに敗退。と、そこへ、平定盛が放った一本の矢が、将門の頭に命中し、命を落としたのだ。自分を新天皇と名乗ってからわずか4か月後のことであった。東国の独立国はあっけなく潰え去った。

討ち取られた将門の首は都でさらされた。が、「将門記」によれば、やがてその首が自らの力で東国へ飛び帰ったとされている。現在ではその首塚が、大手町の一丁目1番地に置かれているが、その場所は皮肉にも平安の天皇の末裔が今も住む現在の皇居の目の前に当たっている。

将門より約一千年の時を経た今年は「令和」の新元号を迎えることとなり、間もなく新天皇が即位されるが、彼はそのことを、どんな思いで見つめるのであろう。

(文=安村直温)


                                                  

2019年04月24日 東葛歴史探訪 下総の英傑「平将門」新天皇に挑んだ武将 はコメントを受け付けていません。 | トラックバックURL |

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