No.167 言葉



No.167 言葉

言葉は、もちろん他者とコミュニケーションをとる手段ですが、自分自身を納得、理解させる手段としての側面ももっています。

先日の思春期外来で、同じ言葉を繰り返す母親がいました。
「子どもはきっと復活できると信じて見守っています」
「どんなことが起こっても、黙って見守っています」
「失敗も多いですが、見守ってゆきたいと思います」

なかなか気合の入った母親のように聞こえますが、〝見守っている〟という言葉の実体が見えてきません。

思春期病の子どもへの対応として、親が干渉や介入をしないほうがよいと知った母親は、自らの姿勢を〝見守る〟という言葉に置き換えて、自らを納得、理解させているのです。

本当のところは、気持ちの焦点を子どもに当てたまま、黙ること、先回りすることを我慢しているだけのことで、監視の目を〝見守る〟と置き換えているにすぎません。

実体は監視に近いものを〝見守る〟という言葉に置き換えるように、「本来の言葉を和らげて、自らの行為を正当化する言葉づかい」を、私は〝緩和語〟と呼んでいます。

もちろん、これは母親を非難している訳ではなく、私たちが緩和語によって納得してしまう危険性に気づいていただくためのお話です。

しばしば耳にする「心配しているのよ」などという言葉も、実は緩和語で、「あなたのしていることは、私の価値観と違うので気になって仕方ないの。いい加減、私の価値観に合わせてくれない」と等しい言葉です。心配していると柔らかく言われると、心を配ってもらい申し訳ないと感じつつも、あまり心地よい気がしないのは、価値観の押しつけが隠れているためと解釈できます。

信じる、受容するなどの言葉もその響きのよさのために、しばしば緩和語として使われます。子どもに対して我慢しているだけのことを、信じる、受容すると正当化するのです。では、具体的にどうすればよいでしょうか?〝黙る、聴く、すべて任せる〟は一つの提案です。

次回は、「思春期病」

 「東葛まいにち」2011年10月12日号掲載



                                                  

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カテゴリ: 思春期ブルー

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